水曜日は定時

萌え四コマ、日常系アニメ、洋ドラなどについて

「桜trickと時間」というお題でいろいろ考えたけど私は何がいいたいのかさっぱりわからない木曜日

桜trick芳文社まんがタイムきららミラクで連載されている四コマ漫画

作者はタチ。2011年から連載開始。2014年にはアニメ化もされた。

現在単行本6巻まで刊行されている。

 

 桜trickはきららめく星の数ほど散らばっている四コマ漫画の中でも、他とは一線を画する作品だ。基本骨格は非常にスタンダードなきらら四コマで、どうでもいいことこの上ない話題で女子高生が騒ぎ、やれクリスマスだ、やれ文化祭だとイベントを消化していく「いつものあれ」である。

 しかし、桜trickにはとにかく登場人物がキスをする、というイレギュラーな要素が追加されている。ゆえに、ガチレズ、攻めてる、上級者向け、イロモノ、と取沙汰され、部室を借りてるだけでなんの活動もしない大勢のきららjkたちや彼女らをにやにや見つめる読者たちの間隙を突いた、ややアウトサイダーな、毒気のある作品として四コマを読む人たちの間で受け入れられている。

 ゆえに、桜trickについて語られた文章を見ると、ほとんどがキスの話だ。アニメ版でも、漫画でも。桜trickといえばキス。女の子どうしのキス。それだけ。

 

 しかし、私は桜trickにはそれ以上のパワー、キスなんて飾り物に過ぎないくらいのエネルギー、イロモノでは済まされない潜在能力が秘められているように思える。今晩はそんな桜trickのやばさについて、妄想を巡らせてみた。少しだけ、お付き合いいただきたい。

 

 あなたは時間が怖いだろうか。私は時間が怖い。時間というものはコントロールが効かない。時間というものは暴力的にやってきて、暴力的にさっていく。名残惜しい時間はすぐに逃げていき、真っ暗でなにもわからない新しい時間がすぐに空いた空間に体をねじ入れてくる。

 時間の恐ろしさは多面的だろう。今が過去になる怖さ、過去を忘れていく怖さ、分からない未来の怖さ、もろい現在の怖さ、その他多数。

 その中でも私が最も怖い点は、「時間はひとりひとり別々にやってくる」ということだ。

 久々に会った友人が全然変わらなかったり、逆に別人のようになっていたりしたとき。海外留学や就職で地元を離れ、慣れない場所でそこで居つくために競争力を磨き、郷に従い、そして帰ってきてみると家族や町がまったく変わっていなかったとき。

 そうしたときに、私は時間というものを強く意識する。そしてそれが傷つけてしまった「共有している」という一体感、その結果生まれた「こころの隔たり」をかみしめる。

 そして、くそう、また時間にしてやられたなと、胸のどこかをちくちくやられながら飲み会の席で幼馴染ののろけ話とかを聞いているのだ。どこか他人ごとになってしまった話を。中学のころのこいつの恋愛話は、起承転結すべて知っていた。どうやって出会い、なぜあの子が好きになって、どこで告白したか。でも、もうそんなことはない。いま会社員になった彼が話して聞かすのろけ話はもう「彼」の話で、私はリスナーとしてここにいる。そんなさみしさ。

 

 この感覚に限って言えば一般的ではないかもしれない。でも、人間皆どこかで時間というものの強さ、暴力性を感じるはずだ。言うことを聞いてくれない時間に齷齪しながら、もっといたかったのに、まだそんなつもりじゃなかったのに、と恨む日があるだろう。終わった時間を惜しみ、まだ来ぬ未来にうろたえ続けて今を見失う。

 

 高山春香も、そんな我々と同じく時間というものに脅かされて生きている。彼女は中学の時に園田優と出会った。優は少し人見知りの気がある春香を引っ張って、友達の輪に入れていった。彼女は春香の一番の友達になる。

 時間は過ぎる。二人は高校生になる。入学式、春香は安心する。もちろん同じ高校。同じ制服を着て、いつものように優が頬につけた朝食のご飯粒を拭いてあげる。(そして食べる)

大丈夫だ、優ちゃんといれば、高校も中学と同じように楽しくなるんだ、と。

 しかし、全てが同じであるわけではない。環境は変わった。優はクラスでいち早く友達をつくる。春香のいたポジション(特等席)には別の子がいる。春香は嫉妬する。誰もいない空き教室に駆け込んで、春香はぼんやり考える。

「変わってしまうのかな、優ちゃんも、私も、この教室みたいに」

それは諦めに似た表情である。そこにはもうやだ死にたいとか、優ちゃんをとりもどしてやるんだからとか、そういったアクティブな動きはない。

丁度私が久々に再会した幼馴染ののろけ話を聞いている時のような感覚。

時間というものが来て、自分も世界も変わっていくんだ、まあそらそうだよね。といった感じ。

 

ここでの春香がすごく美しい。

タチさんはこういう場面での女の子の表情がとてもうまい。マイナス面の表情、というか。話しを戻す。

 

この場面で、時間によって変えられていく、変わっていく女の子、として描かれる春香は、どこか桜の花びらとだぶってみえる。

散りゆく花弁は儚さの象徴。ひらひら舞う姿は美しいことこの上ないけれど、舞ったら最後、かならず地面についてしまう。

でももし、地に向かって落ちていくそのわずかな瞬間にいたずらな風(trick)が吹いたら。

風が吹き、桜が舞って、春香は決断をする。

優ちゃんと何か特別なことをしよう、と。

 

時間は過ぎてしまうものだ。世の中は変わっていくものだ。

でも、そんなこと知るか。キスしちまえ。私たちは特別なんだコラ。

こんなことを作中で言ってる訳ではないが、春香の行動からはそういうある種の熱意が感じられる。気概、勢い、というか。

百合、というジャンルはそんな春香に見方をする。こんなことを言うとレズビアンの人たちに怒られるかもしれないが、百合、同性愛、というものの将来性、安心感というか、「維持可能感」は少ないだろう。

綺麗な言葉で言うと、同性愛は儚い、脆い、ということだ。愛の強さの話ではない。社会はまだまだ厳しい。文化によっては処刑されることもあるだろう。両親も困惑するかもしれない。私だって娘がレズビアンだと言われたらびっくりする。私はバイセクシャルだが、それでも驚く。そして、心配する。大丈夫だろうか。社会から酷いことをされないだろうか、この子らにそんな器用さがあるだろうか、と。

人間は結局動物で、ゆえに本能に従って生きている。雨が地面に落ちるように、DNAがやれやれと騒ぐことを消化していく形で人間は生きる。非常に物理的で、単純な存在だ。その単純な人間の、雨が落ちる的な力のベクトル、本能として、種の存続、というものがある。

人間社会はDNAに書かれた法則に従う個の集合で、個で起こるバグ(=理性や遊び心)はラグ、ノイズとして圧倒的な量の「正典」にすぐにかき消される。ゆえに社会は個人よりも欲にまみれた、動物的なものだ。

その大きな動物は、本能に忠実に動いていく。資本主義、倫理、道徳、法律、民主主義。社会を形作るシステムのすべては本能を達成するために緻密に組まれた道具にすぎない。

 

そんな中で、私や高山春香は子を残せ、金を稼げ、とどやどや言われる

ここで、時間が威力を増してくる。単に私が単一の生き物で、世界に一匹しかおらず、飯食って年老いてオナニーして死ぬだけの存在なら、時間は死から逆算して刻んだ目盛にすぎない。

でも、本能から言い渡された指示書がこの社会にはおびただしいほど貼り付けられている。それをちゃんとこなしていけないといけない。そうしないことは人間という種の滅亡を意味し、それを知っているから社会の構成員たちは我々を「秩序の破壊者」として排除または矯正しようとする。彼らに罪はない。彼らは自分たちが生きたいだけ、人間という種の寿命を引き延ばしたいだけなのだ。本能がそう言うんだからしかたない。

かれらの貼っていった指示書をこなすために、時間というものは限られた資源となる。そして我々に牙をむいてくる。時間がない、という状況がうまれる。我々が一人の存在ならば必要なかった概念。社会を、種を生かすために、我々が意識し、大切にしなければならない資源。

 

百合、というものにたいしても、時間という資源を浪費することへの圧はかかってくる。それをうまくはぐらかしたのがまんがタイムきららの萌え四コマたちだ。

青春、友情、家族愛などきらびやかな人間模様を描くことで(そしてその経験を糧に登場人物たちが未来金を稼ぎ、子孫を繁栄させることを示唆する形で)時間が無駄じゃなかったというテーマに転化したり、全く触れないようにすることがよくみられる。

 

桜trickにはその逃げがない。

「私と優ちゃんは特別な存在」という人間の種の存続という観点ではこの世で最も価値のないといえる概念のもと、高山春香は好意という個人に与えられた本能のもと突き進み、そして彼女は優ちゃんと結婚して子をもうける未来を夢想する。(この作品はつまり個人の本能と集団の本能との戦いでもあるのだ!)

高山春香(や後半はむしろお相手の園田優)は他のまんがタイムきららの主人公と異なり、その構図をしっかり理解しているため、高校というユートピアが社会の外圧から身を守ってくれていることを察している

ゆえに彼女らは時間に戦いをしかける。彼女らもいつか卒業する。ビビッドに想いを伝える。積極的に行動する。

そしてタチさんはそんな散りゆく桜たちにtrickの風を何度か吹かせてあげる。

それをうまくつかって、彼女たちは限られた時間とどう向き合うか、その時が来た時にどうするのか、を考えていくのだ。これはそういう物語である。

廃校という設定は時間をより明確に意識させる。タイムリミットは差し迫っている。

 

それぞれのカップルにはそれぞれウィークポイントがあり、彼女らはそれを卒業までに克服しなければならない。

卒業しては社会の外圧が百合というもろい関係性を破壊しにかかるからだ。それまでに彼女らは自分たちの関係をより強固なものにする必要がある。

 

春香と優のカップルの問題点は春香の「百合脳」だろう。優は春香と真剣に付き合い、結婚し、家庭をつくっていくことを計画している(それが彼女の時間との闘い方)が、春香は優との関係はまだまだおままごと気分、とにかく今のうちに特別になっておきたい、という気持ちから行動しているイメージだ。とにかくいちゃいちゃしたい春香と、もう次のステップへ行きたい優との微妙なすれ違いがたまらなくいい。春香「私たち、カップルみたいだね(照れ)」 優「(カップル『みたい』かあ・・・)」のやり取りは伝説。私の中で。

しずくとコトネのカップルには、作中で最も重い社会の外圧がかかっている。コトネには許婚がおり、またしずくとコトネは親戚である。なんという封建主義的外圧。外圧が強いからこそ、二人は他のカップルよりも熱心に関係の強化を図る。コトネは二人の未来をほぼ諦めており「この三年間を特別にする」方向にシフトしている。しずくはそんあコトネの刹那主義が気に入らない。卒業しても一緒にいるんじゃないのか、結婚するんじゃないのか、という具合に。コトネも表面上はそのスタンスを受け入れている。表面上は。

楓と柚子のカップルは間接的な社会の外圧に脅かされている。緻密に計算された社会では、組織員にそのルート以外のルートなんて思いもつかないように感じさせることができる。柚子には女の子どうしでつきあうなんていうルートが理解できない。外圧の結果だろう。楓の戦いは厳しそうだ。

 

時間は人を分断する。でもだから黄昏ていればいいのか。

飲み会であんなことあったなあ、と想いで話をするだけでいいのか。社会に流され、時間に追われ、大切な何かをなくしてしまっていいのか。

というわけで、桜trickの女の子たちを見て、限られた時間と戦ってみてほしい。

そして、想いを伝え、その関係が時間や社会に負けないものにしてみてほしい。

 

・・・?

 

とここまで書いて、何が言いたいのかまったく見失ったのでここで終わりにしたい。

申し訳ない。

とにかく、桜trickはやばい。じっくり読んでいく価値のある作品(アニメもいいよ!)ではないでしょうか、ほんとに言いたいことはそれだけである。

 

ということで

よろしくおねがいいたします。